プリウス

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ホームページを更新しました。メインコンテンツとなる作業実例をトップに持ってきました。準備ページの隠れむつみは、歩くの嫌がって散歩コースの三分の一の距離は抱っこして歩いている、その時の顔です。「なんであの人、毎朝子犬でもない犬抱っこして歩いてんだろ?」と、いろんな人に目撃されてて恥ずかしいです。そして、メインの更新は10プリウスの下回り作業です。

初代プリウスですが、初代と聞くと、今だとうっかり20を思い浮かべてしまいます。ヒットしたのが20でしょ、それで、ボディデザインの系譜が20から現行までは繋がり感じますけど、10だけは違ってますよね。そういうことでも、うっかり初代が20だと思ってしまいがちです。でも、今見ると10の、あのサイズのセダンがなんとも可愛いです。

初代プリウスの誕生って、もともと開発当初は、ハイブリッドじゃなかったんですよね。

昔『プロジェクトX』という番組で初代トヨペットクラウン開発秘話の回で、その時の開発チームリーダーだった中村健也という人が、番組エンディングで、トヨタを退職後に自宅でパソコンに向かう姿が物語られてて、ここで、自分でプログラミング打ち込んでんですよ。姿はもう80過ぎの老人なんですけど、なんと、後にプリウスで世界初の量産実用化がされるハイブリッドの構想をひとりで研究してたんです。

トヨタでは、1990年代初頭に「21世紀に成り立つクルマ」というコンセプトで、環境性能、カローラの1.5倍の燃費というものを掲げてG21というプロジェクトが始まります。これがプリウス開発のプロジェクトなんですが、このときはハイブリッドではありません。G21スタート一年後くらいに人事異動があって、そのときに副社長になった人が「燃費1.5倍?だめだ、そんなもん2倍にしろ」と言ったら、その時の技術部門の塩見さんって方が「ハイブリッドならいけるかもです」と言ってそこから動力はハイブリッドで、ということになってハイブリッドの開発が進んでいくことになります。で、この塩見さんという方、昔、中村健也さんの下で、一緒にやってたんです。中村さんは初代トヨペットクラウン開発の後、1960年代終わりころから、実は、ハイブリッドの開発に携わっていたんです。当時は動力用のバッテリーが性能を満たすものがなく実用化にはならなかったですが、ガスタービンハイブリッドでヨタハチやセンチュリーの試作車は作っています。その後、ハイブリッドの開発は中断されるんですが、中村さんはトヨタ退職後もひとりで、塩見さんも独自にハイブリッドの研究は続けていたそうです。この60年代からの下地があっての、90年代のプリウス開発でのハイブリッド採用ということにつながっていくんです。それで、90年代のうちにハイブリッドは量産実用化され、最晩年、中村健也さんも見届けることができた、あの名コピーで、プリウスが発売されるんですね。

「21世紀に間に合いました」